献体できなかった母|手続きが間に合わなかった年末年始の記録

2024年12月27日、母はインフルエンザで入院しました。
そして2025年1月5日未明、献体の手続きが間に合わないまま旅立ちました。

冷静に考えれば、献体が生前申請必須であることは、経験上わかっていたはずでした。
でもあの時、家族の誰一人として、そのことに気づけませんでした。
それだけ焦っていたし、気が動転していたのだと思います。

献体を考えている方、ご自身やご家族の終活に向き合われている方に、私たち家族の10日間の記録が、何かのご参考となれば。

ひより

まさか母が献体を考えていたとはね。

しゅん

俺も知らなかったよ。

ひより

母本人から聞いてみたかったな〜

しゅん

だよな、そういう話しておけばよかった…

目次

母が献体を望んだ理由

母は昭和11年生まれ、享年88でした。
クリスチャンで、定年まで生命保険会社の外交員として勤め上げた人です。
鼻歌を歌いながらお菓子を作ったり、ミシンを踏んだり。
買い物が大好きで、片付けは少し苦手でした。

晩年は団地で一人暮らし。
母の世話は、買い物など日々の生活は妹、糖尿病の通院付き添いは私、循環器系の通院付き添いは弟、ときょうだい3人で分担し、デイサービス、ヘルパー、訪問看護も利用していました。

※その妹は、当ブログには普段登場しません。けれど母の話には欠かせない人物なので、今回ばかりは登場します。

ある日母は妹にぽつりとこんなことを言ったそうです。

「献体するのもいいかなぁと思っているの」
「手続きしようかしら」

妹は「いいんじゃない?」と答えました。
会話はそこで終わったそうです。

母がそう口にした正確なきっかけは、私にもわかりません。
夫が献体を選んだので、自然と出てきた言葉だったのかもしれません。

ただ、はっきりしていたことは「お墓がないから」献体を選ぼうとしていたのではない、ということです。
母は、通っていた教会のお墓に入りたいと希望していました。

母が献体を考えていた理由は、医学への貢献。
それから、子供たちに負担をかけたくない、という気持ちもあったのかもしれません。

そして母はその意思を語るだけで、何の準備もしていませんでした。
そのことが、後々大きな意味を持つことになります。

2024年12月27日、突然の入院

2024年12月27日、訪問看護のスタッフが自宅を訪ねたとき、母はトイレに行こうとして動けなくなっていました。
連絡を受けた妹が駆けつけ、救急車に付き添って病院へ向かいました。
診断はインフルエンザで、すぐに入院となりました。

入院手続きの時点では、母は普通に会話ができる状態でした。

病院から、延命治療について家族で話し合ってほしいと言われて3人で相談、「延命治療はしない」と回答しました。

インフルエンザのため面会は原則禁止でしたが、家族には1回10分程度の面会が認められていました。

その時の私には、インフルエンザが治れば退院できるだろうという気持ちと、高齢だから何があるかわからないという気持ちが、同居していました。

4度の危篤、その都度交わせた言葉

12月31日、病院から危篤の連絡が入りました。

私が病院に着いたとき、先に見舞いに来ていた妹と甥は、ちょうど帰ったところでした。
母とは普通に会話ができました。
「え?危篤とは?」そんな気持ちでした。

明けて1月1日、また危篤の連絡。
「会わせたい人、会いたい人がいれば連絡してください」とも言われました。
私は娘を連れて病院へ向かいました。
妹も来ていました。
母は初孫である娘の顔を見て嬉しそうに、いろいろ話していました。

1月2日、3回目の危篤の連絡。
そのときも母は辿々しいながらもまだ会話ができました。

病室を出ると看護師の方が「数値的には危篤なんですが、ご家族がいらっしゃると元気になるみたいです。」と教えてくれました。

そして同じ日、病院で妹が「おかあさん、献体したいようなこと言ってた」と切り出しました。
母と妹との間で何度か話題になり、その度に「手続きしなくちゃね」で話が終わっていたと。
私たちはそれを受けて、献体の手続きをしようと決めました。
ただ、お正月休みのため、大学の窓口がいつ動き出すのか調べてもいない状態でした。

1月3日も母は危篤のままでした。
私はこの日は病院に行けず、見舞いに行った弟から「なんとか話はできるけれど、咳き込むと苦しそうだった」と聞きました。

1月4日、大学からの「どうかご存命でありますように」

1月4日、土曜日。
私はある大学に電話をかけました。
母の献体の手続きについて、問い合わせるためです。

電話口の方は丁寧に、家族の同意者は以前は2名だったが現在は4名必要、書類は基本的に郵送対応、だと説明してくださいました。

家族の同意者は孫でも大丈夫か、書類をメールや病院へのファックスで送れないかを尋ねると、

「確認のうえ折り返します。お母さまの状態が安定するよう祈っております。」

とのことでした。

しばらくして、折り返しの電話が入りました。

家族の同意者は20歳以上であれば孫でも可、データでの送信は前例がないためレターパックで発送(明日着予定)、と伝えられました。

そしてその電話の最後に、「どうかご存命でありますように。」

ありがたい言葉だと思いました。

電話を切ったあと、妹が「今から直接大学に取りに行った方が、郵送より早いんじゃない?」と言い出しました。
すぐに大学に問い合わせると、「13時までに来てもらえるなら対応可能」とのこと。
妹はそのまま大学へ向かい、書類を受け取って、病院に戻ってきました。

その日のうちに、私・妹・弟・甥の4人で、同意書に署名しました。

母はそのとき、もう話せませんでした。
入院してから、母とは献体の話は一度もできていません。

1月5日、未明の電話

1月5日、日曜日。
午前3時20分、病院から電話が入りました。

「脈が落ちてきています」

私が「今から支度して向かいます、1時間以上はかかります」と伝えると、

「あと2時間は持たないかもしれません」

とのことでした。

私たちきょうだいは、それぞれの場所から急いで病院へ向かいました。

最初に妹が到着した時、母の機器の波形はもう止まり、数値はすべて0だったそうです。

次に私が到着したときも同じでした。

医師は、弟の到着を待ち、きょうだい3人が揃ってから死亡確認をしてくださいました。

その日は日曜日。
献体するつもりの大学は休みでした。

1月6日、あの言葉の本当の意味

1月6日、月曜日。
朝イチで、妹が大学に献体の申込書を届けに向かいました。
私は同じタイミングで、大学に電話を入れました。

電話に出た方から告げられたのは

「ご存命中じゃないと受け付けることはできないんです。」

という言葉。

私は言いました。

「土曜日の電話で、母が危篤であることをお伝えしています。その電話の中で、存命中じゃないと受け付けられないとは一度も伺っていません。」

「『どうかご存命でありますように』とお伝えしたと思うのですが…」

この時初めて、あの言葉の本当の意味がわかりました。

電話を切ったあと大学に向かっている妹にストップをかけ、他の大学も調べました。
けれど、どこも生前申請が必須でした。

私たちは、献体を諦めざるを得ませんでした。

振り返って思うこと

母は1月8日、都内の斎場で荼毘に付されました。
葬儀等は行わず、ごくごく内輪で見送りました。

お骨は、母が通っていた教会のお墓に納めました。
納骨は、教会の慣習で年に一度。
母が旅立った年の11月でした。

納骨の日、牧師に促されて、きょうだい3人で写真を撮りました。

ずいぶん久しぶりの3人での写真でした。

母が亡くなる半年ほど前、母の88歳の誕生日に、私たちきょうだいは母の家に集まりました。
その数年前から毎年「最後の誕生日になるかもしれない」という思いがあり、この時も「米寿だから」と私が声をかけてお祝いしました。
けれど、その日も写真は撮りませんでした。

おそらくこの先、もう3人で写真を撮ることはないだろうと思っています。

母の人生を考えると、生まれた家で過ごした時間、結婚して自分の家庭で過ごした時間、そして父が亡くなってからひとりで過ごした時間、と3つの時期がありました。
3つ目が一番長かったのだと思うと、感慨深いものがあります。

母が亡くなってからもうすぐ1年半。
離れて暮らしていたせいか、いまだにあまり実感がありません。
ただ、ふとした時に「ああ、もういないんだなぁ」と思うことがあります。

あの時の「どうかご存命でありますように」という言葉は、当時も今も、ありがたい言葉だと感じています。
当時はその奥に秘められた意味に気づけませんでしたが。

献体について、生前にきちんと母から話を聞いて、書面に残しておけばよかった…という思いが当初は強くありました。

ですが今は、あの時の家族の精一杯を尽くした結果なのだから、これでよかったのだ、と思っています。

この記事をお読みくださる方へ

最後にお伝えしたいことが、ふたつあります。

ひとつめは、「献体には生前申請が必須」だということ。

母には入院前から献体の意思がありました。
ところが、手続きをしていなかったために、叶いませんでした。
これは私たちが問い合わせた大学が特別だったわけではなく、どこの大学でも献体には生前申請が必要なのです。

ふたつめは、「献体したいならすぐ準備して備えたほうがいい」ということ。

母と妹の間では献体の話題になるたびに「手続きしなくちゃね」で会話が終わるようになっていたといいます。
けれど、そう言っているだけで、その「手続き」が後回しになっているうちに、母は旅立ってしまいました。

献体に限らず、終活と呼ばれるものは、「いつかやろう」と思いながらも先延ばしになりがちです。
けれど、その「いつか」が来ないこともあるのだと、今は思います。

弟は今、献体の申込書を取り寄せてみると言っています。

私自身も、献体を選択肢に入れながら終活を進めていきたいと思っています。

長い記事を、最後までお読みくださり、ありがとうございました。

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この記事を書いた人

60代おひとりさま。10年前に夫と死別。お墓のないおひとりさまの私が弟と一緒に本気の終活はじめました。6匹の猫と暮らしています。

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